ワークショップ「デリダ×ハイデガー×レヴィナス」(2014/10/11)報告ワークショップ「デリダ×ハイデガー×レヴィナス」(2014年10月11日、早稲田大学)報告 2014年10月11日、ワークショップ「デリダ×ハイデガー×レヴィナス」が早稲田大学にて開催された(のべ100名の参加)。1964年、若きデリダは高等師範学校にて講義「ハイデガー――存在の問いと歴史」を実施し、レヴィナス論「暴力と形而上学」を発表し、彼らとの哲学的対話を深化させていた。それから半世紀経った今年、デリダの没後10年に際して、これら三人の思想家をめぐって、脱構築研究会、ハイデガー研究会、レヴィナス研究会の共同主催で今回のワークショップが準備された。独仏の三人の思想家を比較検討することは20世紀ヨーロッパ思想史の背骨を描出することに等しく、実に重厚なワークショップとなった。 思想家の比較研究では、どちらかの思想家に優劣をつける結論が安直に提示されることもあるが、今回は、比較される二つの思想家の対立点や分岐点を浮き彫りにし、その思想的文脈を溶き解していくという熟達した発表が並んだ。ハイデガーもレヴィナスも、そして没後10年を経たデリダも、すでに主著の先行研究が蓄積され、新たに刊行物は出されるが講義録や書簡などむしろ専門的な類のものとなっている。研究者がひたすら過度の専門化に傾倒することなく、一般読者や学部学生にこれら現代思想の遺産をいかに(専門的に、あるいは/かつ、通俗的に)継承していくのか、という課題も共有された。以下、各発表のレジュメと司会者による報告を掲載しておく。(西山雄二) 第1部 ハイデガー×デリダ 司会:齋藤元紀(高千穂大学) 川口茂雄(青山学院大学)「前代未聞、音声中心主義」 「音声中心主義」について、あらためて考えてみる。デリダの前期の主要著作『「幾何学の起源」序説』、『声と現象』、『グラマトロジーについて』では、「音声中心主義phonocentrisme」 や 「 自 分 が 話 す の を 自 分 で 聴 く s’entendre-parler」 と い っ た 語 彙 / 概 念が、論の中心的な賭け金を担っている。のちのデリダの著作ではこれらの語彙は登場しなくなるが、たとえば掛け言葉(駄洒落)がデリダの著述の根本的特徴であり続けたことは、「音声中心主義」にまつわる問題系がデリダ的思索の道筋であり続けていたことを暗示しているのかもしれない。 上述のような一見するとハイデガーとはなんの関係もなさそうな諸事項は、現実には、ハイデガーの語彙/概念をデリダが巧みに換骨奪胎するような仕方で生まれてきたものが多い。プラトンの〈イデア論〉登場という決定的出来事以来の、中世・近世・近代を経て現代にまでいたる〈哲学=形而上学〉の歴史を、差異消去の思想として激しく批判するハイデガー(特に『形而上学入門』でのプラトン批判は苛烈である)。そして、さまざまなテクストや事柄のうちに差異や非決定性を暴き出し続けるデリダ。 両者の共通点は、差異を見出そうともがく困難な苦闘、および、言語と思考の不可分離性への透徹した眼差しに存するように思われる。これは表面的な共通性ではありえない。ハイデガーの「形而上学」批判を、デリダは少しいいかえて「現前の形而上学」批判とした。本発表ではデリダの定式をさらにもう少しいいかえて、「現前者の形而上学」批判、また「単語の形而上学」批判と呼びかえてみよう。そのうえで、多義語と余白と空け透きについて、しばし考察してみたい。 峰尾公也(早稲田大学)「ハイデガー、デリダ、現前性の形而上学――その批判の解明」 ハイデガー全集の継続的刊行に伴い、当時の限られた資料によってデリダがなさんとしたハイデガー解釈を、今日より広範な資料を用いて批判的に検討することが可能になってきている。「存在」を「現前性」として規定してきた伝統的存在論に対するハイデガーの「解体」を、デリダは「現前性の形而上学」の「脱構築」として継承した。彼は更に、ハイデガー自身も依然としてこの「現前性の形而上学」の内に留まっているとみなし、ハイデガー哲学に対する脱構築へとこれを展開させる。よく知られたデリダのこの解釈はしかし、一体いかなる点においてハイデガーが「現前性の形而上学」に留まっていると言わんとしているのか。ハイデガー哲学において「現前性」は決して一義的に理解可能なものではなく、彼の問いの移り変わりに応じて多様な仕方で語られているものである。然らば、「現前性」の意味はまさしくそれを論じる際にハイデガーが立てている問いとの関係において見定められねばならない。 それゆえ本発表では、第一に、前期のハイデガーにとって「現前性(Anwesenheit)」がどのように理解されていたのかを、特にマールブルク期の幾つかの講義ならびに『存在と時間』を通じて確認し、第二に、そうした前期の問いからの変化が生じている後期のテクストにおいて、この概念がどのように理解されているのかを明らかにする。第三に、「ウーシアとグランメー」におけるデリダのハイデガーに対する「現前性の形而上学」という批判の解明を試みる。 亀井大輔(立命館大学)「自己触発と自己伝承――デリダの『ハイデガー』講義をめぐって」 昨年(2013年)刊行された『ハイデガー――存在の問いと歴史(1964-65)』は、初期デリダがどのようにハイデガーを読解したかを明らかにする講義録である。従来の『グラマトロジーについて』や『哲学の余白』などで読める初期デリダのハイデガーをめぐる議論は、断片的・部分的なものにとどまり、その全貌はみえにくかった。しかし本書は、現存在の固有性、存在論的差異、現在の現前性の哲学の解体、隠喩、本来性/非本来性、といった重要な論点を提出しつつ、デリダのハイデガー理解の道筋を具体的・全体的に描き出すものであり、初期デリダとハイデガーとの関係を考察する上で欠かせない資料である(さらには、「ウーシアとグランメー」はこの講義の続編として位置づけられることで、より十全な理解が可能となる)。 さて、本書の後半部では、『存在と時間』第二部の時間性と歴史性の問題についての読解が繰り広げられている。そのなかでデリダは、『存在と時間』第74節に登場する自己伝承(Sichüberlieferung)という概念に注目し、それを「自己触発」(Selbst-affektion) ――周 知 の よ う に 、 『 カ ン ト と 形 而 上 学 の 問 題 』 に お い て 登 場 し た 概 念――の別の側面として解釈している。デリダにおいて「自己触発」は、他なるものの触発を同時的に含んだ自己の触発として捉え直されることで、「差延」の運動を表わす用語のひとつとなっているが、本書の議論は、この概念がハイデガーにとって時間性の条件のみならず歴史性の条件でもあり、伝承によって自己を構成するものでもあるということを示している。 本発表はこうした議論に注目する。それを考察するために、まず準備的作業として『ハイデガー』講義の全体像を必要な限りで提示したうえでり、デリダの思想形成にとってこの講義から明らかとなる諸点を示し、最後に自己伝承としての自己触発の議論に焦点を絞りこんでデリダの解釈とその内実を明らかにしたい。こうした読解によって、初期デリダの脱構築論にハイデガーが不可欠な位置を占めていることがあらためて明確になる。たとえば『声と現象』の〈自分が語るの声を聞く〉の問題系は、以上のハイデガー解釈を前提としつつ、ハイデガーの「解体」を引継ぎ徹底化した議論であることが判明すると思われる。 第1部 報告 第1部「ハイデガー×デリダ」では、「音声中心主義」、「現前性」、そして「歴史性」といった主要概念をめぐって、デリダがハイデガーに挑んだ緊張に満ちた対決の内実が問われた。 まず川口茂雄氏の発表「前代未聞、音声中心主義」は、初期デリダの『グラマトロジーについて』と中期ハイデガーの『形而上学入門』を参照しつつ、「エクリチュール[書かれた文字]」と「パロール[語られる言葉]」ないし「フォーネー[声]」との差異、そして現れるものと現れの差異の根源を究明するものであった。川口氏はデリダに寄り添いながら、音と文字の差異、音と音の差異が「聴かれえない=前代未聞」の差異であることを明らかにする一方、プラトンのイデア論を「現前(者)の形而上学」とみなすハイデガーの批判を経由することによって、「エスパスマン[語間]」と「空け透き」という両者の概念の近さを指摘し、そのうえで最終的に「決して聴かれえない」差異の根源的統一が問題となることを示した。 次に峰尾公也氏の発表「ハイデガー、デリダ、現前性の形而上学――その批判の解明」は、ハイデガーの前期から後期にいたる「現前性」概念の変遷をたどりつつ、「ウーシアとグランメー」を参照しながら、ハイデガーの「現前性の形而上学」への捕囚に対するデリダの批判の内実を究明するものであった。峰尾氏によれば、ハイデガーを「現前性の形而上学」として批判するデリダの意図は、ハイデガーの思想や立場にではなく、「形而上学の言葉」を用いたその克服のやり方に向けられているが、しかしその批判は返す刀で、「存在論的差異」に由来する「差延」を用いるデリダ自身にもまた突きつけられざるをえないとされる。 そして最後に、亀井大輔氏の発表「自己触発と自己伝承――デリダの『ハイデガー』講義をめぐって」では、デリダの『ハイデガー――存在の問いと歴史(1964-65)』講義全体の見取り図を提示しつつ、ハイデガーとの対決をとおした脱構築思想の誕生の過程を描き出すものであった。亀井氏によれば、この講義でデリダはハイデガーの「存在論」の「解体」の試みを高く評価しつつも、同時にその困難をも露呈させようとしている。ヘーゲルやフッサールとは異なり、ハイデガーは「〈現在の現前性〉」には回収されえない時間性と歴史性を考えているが、なおそれは依然として「形而上学」の内部にとどまっている。最終的に亀井氏は、『カント書』の自己触発と『存在と時間』の「自己伝承」との連関を見てとるデリダの議論を踏まえて、そこに「動揺」という「解体」の契機が潜んでいる点を見事に読み解いた。 今回のワークショップでは、デリダ、ハイデガー、レヴィナス研究の精鋭が一同に会し、きわめて密度の高い議論を展開することができた。こうした共同企画でしばしば起こりがちな「すれ違い」に陥ることなく、内実のある生産的な哲学的対話を交わすことができ、フロアの参加者にとってもきわめて有意義な時間となったのではないかと思う。本企画を主導いただいた西山雄二氏、会場をご用意いただいた藤本一勇氏、そして脱構築研究会とレヴィナス研究会の皆様に、この場を借りて心より御礼申し上げる。(齋藤元紀) 第2部 レヴィナス×デリダ 司会:藤岡俊博(滋賀大学) 馬場智一(長野県短期大学)「融即から分離へ――ハイデガー講義『哲学入門』(一九二八〜二九年)の聴講者レヴィナス」 フライブルク留学に関して、レヴィナスはフッサールに会いに行き、ハイデガーを発見したと回想している。留学の最後の時期にハイデガーの推薦状を得てダヴォスに行き、カッシーラーとハイデガーの間の世紀の討論を目の当たりにしたレヴィナスは、パリから来たガンディヤックらに『存在と時間』の解説を長々としてみせたという。すでにこの名著の枢要を自らのものにしていた若きレヴィナスは、このダヴォス・セミナーの直前にフライブルクで行われていた講義をどのように聴いたのだろうか。いわゆる形而上学期に入っていたハイデガーは、一九二七年の主著とは違った歩みを見せ始めていた。おそらくレヴィナスはこの講義をかなり批判的に捉えていた。その痕跡を『時間と他者』のなかに読み取ることができる。『哲学入門』で展開される相互共存在および分有の論理は、『全体性と無限』で展開される「分離」という発想がもつ批判の射程に完全に含まれている。 他方、ハイデガー自身は、フッサールの「閉じたモナドロジー」を自身の講義で露骨に批判し「開かれたモナドロジー」を対置する。フッサールもまたハイデガーの形而上学的試みを警戒していたようである。現象学の巨人の対立を目の当たりにしながら、レヴィナスは分離という方法を、他者性を巡る自らの思考として彫琢していったのではないだろうか。『全体性と無限』におけるレヴィナスの倫理的「形而上学」は、二つのモナドロジーとの対決により形成されたのではないだろうか。このようにレヴィナスの思想形成を辿り直すことで、「暴力と形而上学」とは別様なレヴィナス理解を素描してみたい。 小手川正二郎(國學院大學)「暴力と言語と形而上学――「暴力」をめぐるレヴィナスとデリダの対決」 今日、ハイデガー、レヴィナス、デリダの思想家の著作を読み、研究し、日本で発表する意義はあるのか。それらは、一般的な見方や従来の思想とは別の仕方で「現実」を見つめることを可能にし、個々の具体的問題に対して何らかの視座を提供しうるのか。本論は、こうした課題に対して、「言葉の暴力」という論点からレヴィナスとデリダの暴力論の可能性を論じた。 最初に、レヴィナスの「デリダ的読解」に対して『全体性と無限』の以下の論点を浮き彫りにした(詳細については、拙論「レヴィナスにおける他人(autrui)と〈他者〉(l’Autre)――『全体性と無限』による「暴力と形而上学」への応答」、『哲学』第65号、日本哲学会、2014年参照)。(1)レヴィナスは、他者(l’autre)を他人(autrui)に縮減する人間中心主義者であるのではなく、他人との関係を分析した帰結として〈他者〉(l’Autre)という概念の必要性を論証している。(2)『全体性と無限』は、「他者への暴力」ではなく、自我に働きかける〈他者〉の暴力および非暴力を主題としている。(3)「存在論的言語」は、レヴィナス独自の「現象学的方法」と密接かつ肯定的な繋がりを有し、『存在するとは別の仕方で』(1974年)の間には、「転回」ではなく「深化」を見る必要がある。 次に、暴力概念の多義性を整理した後に、「他者への暴力」をめぐるデリダのレヴィナス読解がいかなる点でレヴィナス自身の記述とはすれ違っているのかを論じた。その上で、レヴィナス自身は主題としていない「他者への暴力」の問題を、あえてデリダと同じ水準で論じるために、「言葉の暴力」という具体的問題をとりあげた。一方でデリダの原的暴力(archi-violence)という概念を、J・バトラーの議論(『触発する言葉』)を経由して、名づけられることの暴力性に遡って対抗言論を探る可能性という形で展開する可能性を示した。他方、「暴力を他人との出会いの第一次的事態とみなすことなく、暴力が他人からの非暴力的な働きかけを前提としている」点を強調するレヴィナスの暴力論が、言葉の暴力をめぐる議論にいかなる視座を与えうるのかを、ヘイトスピーチの規制の根拠と関連づけて考察した。フロアからは、レヴィナスが他人から自我への働きかけを「非暴力」とみなす根拠や、徹底的に無視するという意味での「最悪の暴力」と言葉の暴力との関連等が問われ、多大な示唆を得た。記して感謝いたします。 渡名喜庸哲(慶応義塾大学)「デリダはレヴィナス化したのか」 今日的な視座からデリダ×レヴィナス(×ハイデガー)の関係を再考するにあたり、まずもって、前二者の死後に公刊された講義録や講演の記録などによって徐々に明らかになりつつあるコーパスに目をやる必要がある。なかでも、本発表は、レヴィナス『著作集』第一巻「捕囚手帳」にある「現存在かJか」との二者択一から出発したい。この一文は、戦中の捕囚収容所でつづられていた手帳に見られるもののため「ユダヤ教(judaïsme)」が略字で書かれているが、そこにはハイデガーに対する態度決定と「ユダヤ的存在」なるものを自らの哲学の骨格としようとするレヴィナスの意気込みが見てとられよう。ところで、この文句が惹起する問題系は、レヴィナスがその後に展開してゆくその哲学的企てがいかなるものであったかを再考する必要性を示唆するばかりでない。« Jewgreek »と« greekjew »とについて、あるいは「アテネ」と「イェルサレム」について、デリダの「暴力と形而上学」が一見すると脱構築したかに見えるにせよ、この問題系全体は、今日――デリダの「仏語圏ユダヤ人知識人会議」参加および2000年のデリダ・コロック「ユダヤ性(Judéités : questions pour Jacques Derrida)」の後で――もう一度考えなおすべきように思われる。とりわけ80年代以降のデリダが「正義」や「メシアニズム」等の「レヴィナス的な」語彙を用いるようになり、ユダヤ系の思想家への言及を増やしていっているのが事実だとすれば( « Interpretations at war », Les yeux de la langue, etc.)、なおさらそうであろう。本発表では、『全体性と無限』から『存在の彼方へ』への「展開」を、「表出」および「作品」概念との関連で確認したあと、80年代以降のデリダの「レヴィナス化」を考えるために、「赦し(pardon)」の概念に注目する。そこからレヴィナスとデリダとの関連を新たな仕方で考察するためのいくつかの糸口が示したい。 第2部報告 第2部「デリダ×レヴィナス」ではレヴィナス研究会から馬場智一氏、小手川正二郎氏、渡名喜庸哲氏の3名が発表を行った。 まず馬場氏の発表「融即から分離へ――ハイデガー講義『哲学入門』(1928-29年)の聴講者レヴィナス」は、40年代後半のレヴィナスの哲学コレージュ講演におけるモナド論への言及から出発し、レヴィナスの錯綜したモナド論の理解の淵源をレヴィナスがフライブルクで実際に聴講したハイデガーの講義『哲学入門』のうちに探るものである。レヴィナスのハイデガー批判を意味ある仕方で検討するには、参照を明示することの少ないレヴィナスがハイデガーのいかなる議論を念頭に置いているのかを特定しなければならないが、馬場氏は『哲学入門』における現存在のモナド論を丁寧に紹介しつつ、同講義に見られるレヴィナスの批判の諸契機(真理への融即、現存在の中性)を、内的かつ外的な論証の積み重ねによって説得的に明らかにした。 次に、小手川氏の発表「暴力と言語と形而上学――「暴力」をめぐるレヴィナスとデリダの対決」は、「暴力と形而上学」に端を発する(デリダ自身のものではない)「デリダ的読解」を批判的に再検討したうえで、『全体性と無限』から抽出できるレヴィナスの「暴力論」の射程を示したものである。レヴィナスの「倫理」が現実的な諸問題に対してどのような有効性をもちうるのかというのはレヴィナス研究者がつねに直面する問いである。小手川氏の発表は暴力のさまざまな形態のなかでも特に言葉による暴力に焦点を合わせ、デリダやバトラーを援用しつつ、ヘイトスピーチなどの言語的暴力の問題にレヴィナスの立場からいかに接近することができるかを示した意欲的なものであった。 最後に、渡名喜氏の発表「デリダはレヴィナス化したのか」は、小手川氏と同様に「暴力と形而上学」をレヴィナスの思想的「転回」の契機とみなす従来の解釈に疑義を呈したあと、『全体性と無限』から『存在の彼方』への「展開」をデリダによる批判を媒介させずに読解した。そしてデリダにおける「赦し」の問題に着目することで、この議論のなかでなぜか言及されないレヴィナスが不在の影のようなものとして浮き彫りにされた。80年代以降のデリダはユダヤ系の思想家やユダヤ的な主題への言及を増やしていくが、渡名喜氏はデリダのこのユダヤ的「テシュヴァー」(赦し、改悛、回帰)を、「ユダヤ的なもの」へ参入することでそれを内側から差異化していく試みとして解釈できると指摘した。 ワークショップ全体を通して、各発表者による新旧のテクストの精緻な読解にもとづいて、ハイデガー、デリダ、レヴィナスという三人の哲学者の真摯な対話の可能性が浮かび上がってきた。三研究会の共催という大規模な企画の実現にご尽力いただいた西山雄二氏および藤本一勇氏、またハイデガー研究会と脱構築研究会のみなさんに感謝いたします。(藤岡俊博) 第3部 全体討論 デリダ×ハイデガー×レヴィナス 司会:西山雄二(首都大学東京) まず、宮﨑裕助(新潟大学)によれば、デリダとレヴィナスは哲学の共闘関係にあったのに対して、ハイデガーに対するデリダの関係は複雑で厄介である。ハイデガーはデリダのほとんどのテクストに拡散している特異な思想であり、デリダはつねに微妙な距離感をとっている。初期デリダがハイデガーの思想的構えとの哲学的論争や対決姿勢を示したのに対して、80年代以降、デリダはむしろハイデガーのテクストの表層を繊細に読解した。たとえば、「精神Geist」の使用の揺れとナチズムの時代性との関係、多義語Geschlecht(種属、生殖、性、類など)による感性的で身体的な主題が挙げられるだろう。 齋藤元紀(高千穂大学)によれば、(1)現前性を批判するハイデガーはその対抗原理として非現前性を称揚したわけではない。非現前的なものをも含み込んだ現前性をいかに取り戻すのかが重視されており、この企てにはデリダの現前の形而上学批判が捉え損ねている余地がある。(2)言語に関して、ハイデガーは『哲学への寄与』で奇妙な言葉遣いを実験しているが、その多くは放棄され、Ereignis(性起)だけが残された。Ereignisが含意するのは、一回きりの出来事性の言葉への委託ではないか。(3)ハイデガーにおける他者の不在を再考するために、『存在と時間』における垂範的顧慮と尽力的顧慮を共時的ではなく、通時的な射程で解釈しうるだろう。この時間的・歴史的な共同存在は特定の民族には収まらず、存在史を通じた共同をも示唆するのではないか。 藤岡俊博(滋賀大学)は、デリダ(D)×ハイデガー(H)×レヴィナス(L)という三幅対を巧みに定式化した。(D×H)×Lならば論考「暴力と形而上学」で示された関係となり、(D×L)×Hならばユダヤ性が強調されるが、他方で、(H×L)×Dという関係はありうるのだろうか。また、レヴィナスによるデリダ論「まったく別の仕方で」(『固有名』)を参照したり、『声と現象』をレヴィナスから読み直す作業も可能ではないか。 藤本一勇(早稲田大学)によれば、現前は非現前との相補関係に置かれるが、そうした表裏一体の循環こそが現前の形而上学と言える。デリダは差延や代補といった問題設定を引き出し、この循環構造の限界で踏みとどまりこれを組み替える。現前は非現前の枠組みから逸脱する亡霊的なものが現出し、私たちに効果を及ぼすのである。 会場との討論では、最後に、「現前の形而上学批判はいかなる新しい哲学を生み出すのか。脱構築は現前性の閉域の境界を動揺させ続ける運動であるならば、そうした無際限さに耐えるしかないのか」という問いが提示された。もちろん、脱構築は目的論を欠いているが故に「耐える」という情動で表現できるものではない。だが、さらなる質問にあったように、三人の思想家がもたらした哲学の使命を再考することは課題となるだろう。「結局、哲学は何を目指すのか。ハイデガーの申し子たちは超越論的反省を深化させていく。デリダなら痕跡や亡霊というように実体性を消去するが、だが、それでもなお、ある抵抗性をもって世界が立ち現われる根拠、経験の根拠づけの場という事実は残る。ハイデガー以後の思想はいかなる世界イメージを、いかなる哲学的ヴィジョンを提示できるのか。」(西山雄二)
by HeideggerAT
| 2014-10-13 21:24
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