2017年3月例会(Ⅱ)報告

3月26日(日)に立教大学7201教室で行われたハイデガー研究会3月例会(二回目)には、学部生も参加していただけるなど、盛会となりました。その模様をご報告いたします。
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 「黒ノート」(金成祐人氏訳)検討会では、ÜberlegungenⅥの37から42までが、森正樹氏によって検討されました。37では、創造や歴史について議論され、若干の者にのみ到達できる僅かなものと多くの者に到達できる安易で凡庸なものとが対比されました。ユニークであったのは、単に安易で凡庸なものが否定的に捉えられるだけではなく、それらは稀なものや到達することが困難なものであり続けるために必要なものであるとされたことです。 38では、史学的ではない歴史へと到達するためには、存在者を転覆させる道と存在(Seyn) が変化する道の二つがあり、両者ともに互いを必要とし合うとされました。そして、39では、事物をより偉大なものにするかそれとも凡庸なものにするかが委ねられているがゆえに、現存在には特別な地位が属しているとされました。
 やや長めの40では、「われわれがどこに立っているのか?」という問いをめぐって、「われわれとは誰か(wer)」という問いが「どこ(wo)」の問いと密接な関係にあることが、「史学」や「心理学」とは異なった仕方で探求されるべきであることや、立つことがもしも現-存在の内へと出で立つことを意味するとすれば、われわれはまだ立っていないのではないかということが示唆されました。41では、ワーグナーやチェンバレンへと言及しながら、当時のニーチェ研究の状況についての不十分さが指摘され、42では創造と世界観との関係が議論されました。四月のハイデガー研究会例会(4/30)では、43から50までを検討予定です。
 後半のプログラム、加藤皓士氏による研究報告「本来的現存在において無性が持つ意味について ―投げられた根拠存在をどう理解すべきか」では、『存在と時間』における負い目ある存在(Schuldigsein)について、根拠存在や無力であること、被投性・事実性などの概念を照明しながら議論されました。その際、根拠存在としての現存在がすでにあるところ(世界や存在者の総体)から自己を企投するという点が強調され、ある可能性を選び取るときにはすでに自己の理解がなされてしまっており、この意味で存在可能性に立ち遅れていると指摘されました。そのうえで本来的に負い目ある存在になる可能性へと自己を企投することとは、これまでに選ばれなかった可能性を担い直すことであり、過去の選択を辿り直すことであると主張されました。
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 報告後の質疑応答では、企投における「無(Nicht)」の理解や事実性の解釈の確認のほか、根本気分である不安と本報告の議論との関係、本来性における負い目の位置づけ、そして本報告の主張である「可能性を担い直すこと」とは何かなどについて、活発に議論されました。
 次回ハイデガー研究会例会は、4月30日に開催予定です。ぜひご参集ください。

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by HeideggerAT | 2017-04-05 19:39
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